JR宝塚線脱線の報道について

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そろそろ事故について、JR西日本の会社体質などについて、一通り報道された感じなんだろうか。


う~ん、事故報道、特にこういう大きなものは、扱いが難しいと思う。


被害者の方々、家族やその関係者、心配りが必要な(配慮されるべき)方々がたくさんいて、本当に一番大切なのは「思いやり」や「デリカシー」の類に含まれる感情や行動のはずだと思う。


だけど、その後のニュースで
–事故に遭遇して電車に乗ることが怖くなった方々を、車で送り迎えする機関がボランティアとして設立されました–
という類のものは見ない。メディアからのそういう訴えかけもない。
事故と関係のない人々も皆、様々な悩みや苦難を抱え、日々の仕事や生活に忙しいのだろう。


「事故報道」がTVで視聴率を稼げるのは、我々人間の「ヤジウマ根性」にダイレクトに訴えかけてくるものだからだと思う。


株価情報やプロ野球の試合結果を日々チェックしている人はいても、事故報道を今か今かと心待ちにしている人はいない。


でも報道されたら見る。株価チェックより先に見ちゃったりする。


責めやすい、同情をかいやすい、そういう事故、事件は、直接関係ない人が「なになに?」って見たくなるものなんだと思う、本質的に。


でも、今回のような報道スタイルでは、いわゆる「報道」と名乗る意味が…なくなってしまう気がします。


「報道」と書かれた腕章をつけて、一般人が入り込んでいけない事故現場にまで入ることを許されたのだから、その意味を噛みしめて伝えて欲しいな、と思う。


ヤジウマ的心理が喚起される事象を、冷静に解きほぐして、僕たち一般人では感情的に「ウワッ」となっちゃうところを、


「事実はこうです」
「背景はこうなってます」
「これが現段階でわかってることで、これは推測です」
「これは被害者の方々を配慮し、詳細は後日明らかにします」


そういう感じで、ピシッと「大人な」伝え方をして欲しかった。


もうJR西日本のボーリング、宴会関連のネタはいいと思うよ…おそらく…


何も考えずに事故報道を見ていた人々も、さすがに報道の安易さに気付き始めちゃいますよ…


これでは近所のオバサンが、「○○さんところの息子さん、大学受験失敗したのはテレビゲームやりすぎたからやって…困った子やねぇ…」と噂してるのと変わりない気がする。
その息子に受験費用を貸してたんなら、「なんだと!」と当事者として憤慨するところだけど、関係のないオバサンにそんな情報はいらん…よね。


そういうのは、今のところは、悔やんでも悔やみきれない被害者遺族の方々と、大きすぎる過ちを犯したJR西日本の間で、じっくり共有してください。


そんな企業体質なのにJR西日本が今後も無反省で誠意に欠け、遺族への対応や補償もひど過ぎる、そういう事実が問題になってきた時に、メディアが大きく扱って世に知らしめ、問いかける材料にしたらいいじゃないですか。


長くなりましたが、そんな感じに思えてならないので、書いちゃいました。

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