モーガン・フリーマンの居ないドライビングMissデイジーはただの退屈な日常劇である。モーガン・フリーマンの居ないセブンはただのブラピの一人走りである。そしてモーガン・フリーマンの居ないブルース・オールマイティはただの退屈なコメディである。
映画には彼みたいな役者が絶対に必要だ。
脇役の大切さをこれほど認識させてくれる役者はなかなか居ない。
そして脇役としての彼を語るのであれば、あえてショーシャンクの空には引き合いに出さない。わかりやす過ぎというか、ハメ過ぎというか、あの映画の完成度であれば脇役はモーガンン・フリーマンじゃなくてもOKだと思う。
大学生の時に古びたVHSのテープをレンタルしてドライビングMissデイジーを見た時、僕は自分の知らない大人の世界がまだまだあることを思い知らされた。モーガン・フリーマンは男であり、父であり、老人であり、従者であり、そして紛れもなく主人公の老女デイジーの「パートナー」だった。
脇役とは単なる2番目ではない
若い人間はそんなシンプルな意味に気付くまでに時間がかかるのである。
ブルース・オールマイティでの神様役はもうこれ以上ないハマりっぷりである。
この役がロバート・デ・ニーロだったら?アル・パチーノだったら?ましてやリチャード・ギアだったら?誰もピンとこない。彼しかいない。しかし映画は彼の効果だけで成功しているわけではない。まさに脇役の極地だ。
彼はクリープのないコーヒーが寂しいことを知らしめる役者だ。例えが古いのも良い。
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