夢のサーフシティー

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村上春樹がその昔、村上朝日堂というHPを持ち、
実際に読者とメールをやりとりしていた、
という事実を知る人はけっこう少ない。


まだまだ「パソコン通信」なんていう言葉がまかり通っていた時代、
あの伝説的に人前に出ない作家、村上春樹と、直接メールで語らえるサイトが、
これ本当に存在していたのである。


う~ん、うらやましい…


1996年スタートだそうだ。


1996年といえば、僕は東京に転勤になったばかりで、
ペンティアム133MHZのCPUを搭載した自作パソコンの購入に
胸躍らせていた頃である。
その頃のインテルのプレスリリースを見つけた。ココです。


そんなインターネット初期の時代に、
村上春樹はシコシコと読者とメールしていた訳である。


う~ん悔しい…


もう少し社会人として金銭的に余裕のある年齢なら、
物珍しいネットの世界に飛びついてグリグリ遊んでたと思うけど、
一人暮らしのサラリーマンには(しかも東京デビューしたばかりの僕には)
プロバイダーの月々の料金も大きな支出だった時代である。


モデムでピポパと回線につないでいた時代ですしね。


ああ、懐かしい。


今なんて誰でもブログ書くし、好きな作家のサイトを見つけても
「自分だけが知っている」みたいな感覚はないもんね。
この時代の村上朝日堂は、ある意味まさに、
「ネットの世界で見つけた私だけの世界」
を提供してくれていたんだと思う。いい時代だなあ。


そして、そういう世界を提供しようとするサービス精神が、
おそらくこの人前に出ない作家の中に宿っていたのだと想像する。


 


さて、そんな時代の記録が、本になったわけだ。


村上朝日堂 夢のサーフシティー

村上朝日堂 夢のサーフシティー



  • 作者: 安西 水丸, 村上 春樹
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞社
  • 発売日: 1998/06
  • メディア: 単行本


 


念願叶って、この本を買ったのが3ヶ月ほど前。発売はすごく前なんですが。


やっと読み終わりました。実際、集中して読めば3時間もかからないんだけど。
お楽しみのCR-ROMはこれからじっくりブラウザーで読みます。


 


思ったとおり、知りたい部分が載ってました。


 


この人は自分の作品の解釈や解説を殆ど公表しない。
勿論、意識して語らないようにしている。
語るのは作品であって自分ではない、という姿勢だろうか。


僕はなによりもそういう個人的な集積を大事にしたいと思って小説を書いています。
どれだけ売れるとか、マスコミに褒められるとか、そういうことじゃなくて、
一対一の結びつきがどれだけ深まり広がっていくか、僕にとってはそれが一番大事なのです。
(村上春樹)


これは本人談の、自身の作品に対する姿勢だ。
少し横道にそれるが、井上雄彦も同じようなことを言っている。


漫画を描くということはひとつのコミュニケーションだと思っています。
とはいえ大勢の読者を頭に浮かべて描いているわけではありません。
だれか一人のひとを、僕に似た誰かを浮かべています。
その誰かに届くように
そのひとも僕も持っている部分に響くように
あの頃も、そしてこれからも、
そうやって漫画を創っていくのだろうと思います。
(井上雄彦)


どちらも言わんとしている精神の中核が似ている気がする。


 


僕が見つけて嬉しくなったこと、知りたかった部分というのは、
ノルウェイの森についての見解です。


かなり的を得た読者の意見(どちらかというと好意的なもの)があり、それは


「ワタナベ君は自分に似ていると思います。それは悲しい感覚です。
でも一方では癒され、やさしい感覚になります」


というものだ。それに対して村上春樹が


「あなたの感じ方は正しいと思います」


と肯定している。


「ワタナベ君は私だ」と思うのは、とても正統的な本の読み方のひとつだということです。
そして逆の言い方をすれば、僕はまったくワタナベ君ではありません。
ワタナベ君は「僕があるいはそうであったかも知れない人」です。
だからこそあなたにとってワタナベ君は悲しく、
僕にとってもまたワタナベ君は悲しいのです。


と。
そしてそのあと、前述の姿勢の話をする。


この表裏一体の、乖離しているようで限りなく近い精神、
それが作品がもたらす一対一の繋がりで、目指すべきところなんだ、


僕の解釈では、そういう感じです。


ああ、やっぱりそういう観念だから書けたんだな、
と納得できて、嬉しくなる下りだった。


追記:
さっき、気づいたけど、村上モトクラシに新しいコメントが載ってます。
トラックバックさせていただきやんす。

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